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| 2003/11/26 |
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『博士の愛した数式』
著 者:小川洋子 出版社:新潮社
発行日:2003年08月 本体価格:1,500円
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どうして泣けてきたのか、不思議でした。悲しくて泣かせる場面というわけでは全然ないのに、読みながら、なぜだか涙が抑えられませんでした。
事故のためエンドレステープのように80分しか記憶がもたなくなった数学者の博士と、家政婦とその息子の3人の交流を静かに描いた物語です。博士は一見何でもない数にいろんな意味を与えます。7桁の電話番号5761455に、「素晴らしい、それは1億までの素数の個数に等しい」と即座に言い、江夏投手の背番号28は『完全数』という特別な意味のある数だと言うし、220と284は「『友愛数』として神のはからいを受けた絆で結ばれ合った数字」だと言うのです。初めはとまどった家政婦も、徐々に博士の数学への思いを理解するようになっていきます。
ときおり現れる数式は、せいぜい足し算程度の簡単なものなのですが、その物語へのとけこみ方が、絶妙なバランスでした。専門的な話題を扱う小説では、説明が難解すぎたり細部の間違いが物語の雰囲気を壊したりすることがありますが、この作品にはそれは無用の心配でした。壊すどころか、何より素晴らしいのは、数学に仕える博士――あえて仕えると言いましょう――が数学をたたえる姿や、博士に接するうちに家政婦が数学の美しさに触れていくさまが、見事に神々しいほどに描かれているところでした。家政婦と息子は、自分なりに博士から数学を愛する気持ちを感じ取っていきます。そしてある日とうとう、博士から出された問題を考えるうちに、「ひらめきに打たれる」幸せを味わうのです。それは神の祝福ともいえる高貴な喜びであったのです。
私は何に泣けたのでしょう。学問の女王と呼ばれる数学は、証明の中に1か所でも間違いがあればすべてが崩れ去るという完璧さを私達に求める学問です。絶壁のように気高くそびえ立つ女王は、容易に人を寄せ付けません。数学という神の真理の前に謙虚にひざまずく博士に敬意を持ちつつ、家政婦親子は少しずつ博士と交わりを深めていきます。その3人の純粋な心の触れ合いに、「こういう愛の形もあるんだな」という言葉が自然に胸に浮かびました。しかし博士の記憶は80分。《僕の記憶は80分しかもたない》ということさえ、思い出すためにメモしておかねばならないのです。そのどうしようもない悲劇的な事実と、けっしてかなわない数学という絶壁への愛と絶望と、それらが重なって、私の心のどこかと共振して涙を呼んだように思えます。
読み終えて印象も新鮮なある日、とある店で「純米歩合28%」というお酒を見つけた私は、思わず口走っていました。「28って完全数なんですよ」。その場にいた友人たちにはけげんな顔をされましたが、内心、この物語を読んだことを自慢したい気持ちで、むしろ誇らしいほどに感じていました。読み終えたあとに残った、しみじみと澄んだ、心を包み込むようなこの気持ちは、誰かに伝えたくなるものでしたが、でもそれを説明するのは何か壊してしまいそうで、心の中にとどめておきました。
うまく伝えられないのがもどかしく、でも一人でも多くの人に味わってほしい、そう感じる時間をもらえた作品でした。 |
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【楽天スタッフ 笑】 |
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