自殺志願者が集まるホームページの掲示板で、「僕」は行方不明になってしまった恋人と同じ名前「萩原リサ」の「書きこみ」を見つける。何も言わず、僕の目の前からいなくなってしまった彼女。その書きこみの主は『生きてることに、意味なんてありますか?』と問いかける。その書きこみにレスをつける僕のハンドルネームは「23時のハリネズミ」。やがて「萩原リサ」とメールを交わすようになる僕。果たして行方不明の恋人とは別人であった自殺志願の「萩原リサ」に、僕は、遺書を書く場所として自宅を提供する。何故、彼女は、僕の恋人の名前をハンドルネームにしていたのか。二人の奇妙な共生が始まる。ただそれは「萩原リサ」が遺書を書き終え、自殺を決行するまでという「期限」があった・・・。
昨年、評判の一冊ですが、ようやく読むことができました。生きていることに意味を感じないけれど、死ぬことも面倒。現実的な「現実」にはウンザリで、かといって他の希望もない。どうせなら気楽に死ねる方法が欲しい。人生の「リセット・ボタン」を押す。肉体的な「死」から一番遠い若い時期ほど、観念的な「死」を求めるものであるとの言葉を読んだ記憶があります。若者の閉塞感は、表現の形は色々ですが、各時代で描かれ続けてきたもの。それにしても、生きる意味や目的が、あらかじめ失われている、この喪失感は一体なんなのか。より「現代的」なことに、この作品では、インターネットのホームページの掲示板を道具立てにして、そこに生まれている新しい形の人間模様が描かれています。多くの「ハリネズミ」たちが集まってくる場所。トゲを持ったハリネズミは、近づけば、トゲで相手をつきさし互いに傷つけあってしまう。一人でいるのも寂しく、誰かと近づいていたい。だからトゲをしまいこんでしまう。有名な人間関係の比喩。「23時のハリネズミ」は、ネットの海の中で安心して自分をさらけ出せる相手を見つけることができたのか。癒されない失望感と孤独。リセット・ボタンは押せても、リスタートできないのが人生。『ただ一日、生きてりゃいい。別に未来なんてなくてもいい』と「僕」は「萩原リサ」の命を慈しむようになります。デフォルトの絶望の中のかすかな希望。果たして、命そのものの尊さを見出すことができたのか。ちょっと考えこんでます。救いは、どこかにあったのかと。
『どこの誰かより、どんな誰か、を大切にしている』まち、の話があります。森田誠吾さんの『魚河岸ものがたり』、昭和末期の直木賞受賞作。つい先日、読んだのですが、とても良くって、何故、この作品を見過ごしていたか、という感じです。ある「秘密」をかかえた青年と、その周囲に住む「かし」に息づく人たちの日々の出来事。最終章で青年の「正体」が明かになりますが、結局、このまちでは、どこの誰かなんてことは問題ではなく、彼は、十年に渡って秘密を抱えたまま、歓待され続けていたのです。ベタベタしていない、なんとも潔くカラリとした「人情」が心地良い作品でした。ホームページの掲示板コミュニティも『どこの誰かより、どんな誰か』の世界ではないかな、と思っています。個人ホームページの掲示板(主に読書系)にお邪魔していた時期があります(某社と提携される方が多く、足を運べなくなり残念ですが)。本という共通の話題について話しているようで、実は本を通じて、別のことを話しているような気もする不思議な空間。私も素性を明かさない「どこの誰か」わからない人間。そんな得体の知れない私に対して、言葉を返していただいたり、多少の関心を寄せていただいたのは、とても嬉しいことでした。自分の「正体」を明かさないのが当たり前の世界で、時として、掲示板に並べた言葉こそが、社会で活動している外向きの自分よりも「正体」に近いような気もしたのです。『リセット・ボタン』を読んでいて、ああ、もう「ハリネズミのジレンマ」の話は止めようじゃないですか、と嘆じてしまいました。ネットの掲示板ぐらいはナチュラルで自由な言葉を交わしたら良いのでは、と思うものの、ナチュラルに人を傷つける人も、ナチュラルに傷つきやすい人もいる。手放しの理想郷ではないところに実は意味があって、いつの間にか生まれた秩序こそが、なんだか尊いもののような気もしています。それがネット的な「人情」なのでしょうか。 |